poison__cat’s diary

自分のことを猫だと思い込んでいる人間でありたい人間の戯言

鳴く猫は鼠を捕らぬ

こんばんは  毒吐き猫です。

 

モラトリアムから追放され、まさに

猫の手も借りたい…!(一応、僕、、猫なんですけどね)

と言わんばかりの自分の無力さに打ちひしがれてるところであります。

 

無力さ

前から感じている

目の前にいる人に手を差し伸べる

でも、その手を掴み返してくれるわけではない。

自分よりも適任者がいるのだろう。

自分を選ばなくても良い。

なんとなく、それが当たり前の感覚になっていた。

 

 

それでも、どこかで人に対して希望的観測を持っている自分がいた。

誰かはこの手を掴んでくれるんじゃないか

自分に存在意義を与えてくれるんじゃないか

 

 

 

鳴いてるだけで何もできない、今の自分に問う

「お前はどうなりたい、どうありたい?」

 

差し伸べた手は戻すつもりは無い。

ただ、綺麗な世界を見せてあげたい。

上を向いて心を震わせて欲しい。

本当はその世界の一部になりたい。

 

『猫に四季は感じられない』

なら、猫は四季を感じさせないのだろうか

春の日差しで目をつぶる

夏は猫がよく落ちている

秋は落ち葉とともに毛が落ちる

冬の雪が舞う中、寒さで丸くなる

 

こんな生き方だってあるんじゃないかって、

そこに自分がいなくとも

自分が小さな変化を与えれたらそれでいい

それでも、、、、

 

 

よく鳴く僕は鼠を捕まえるのが苦手なのだ

 

本当は鳴いてばかりの僕に手を差し伸べて欲しいのかもしれない。

差し伸べた僕の手を繋いでくれますか。

そう言いたい。

そう思っているだけ。

 

それではまた。

猫に四季は感じられない

こんにちは こんばんは
今はどっちだろう?

と頭を悩ます時間が早く来るようになって
しばらく経ちました。って冬頃に書き始めて、
結局は頭を悩ます時間が遅くなる季節になりました。


『儚い』を代名詞にしている花が咲く季節
人の関係が大きく変わる時期に咲くからだと思う。

モラトリアム


僕はモラトリアム期間から追放されようとしている。
モラトリアムはマイナスな意味合いに思われがちである
「人間として心理的な成長をしないで、人生の選択を先延ばしにすること」

もっと端的に言うと「現実逃避」をする人だ。


本来、心理学者のエリクソン
「大人になるための準備期間」
としてモラトリアムを提唱していた。
しかし、世間はそれを悪いことだと思うらしい。
18~22歳が一般的にモラトリアム期間であると言うが
少し前のニュースや新聞記事を見てみると、若年層の僕らの中には社会人になっても
モラトリアムから脱出することが出来ないでいる人が増えているらしい。
離職率がそれを物語っている。


毒吐き猫と名乗ってきた僕は
自分のことを猫だと思い込んでいる人間でありたい人間である。
僕にとって「」は

『何にも縛られず、自由奔放に生きていけること』

その象徴だった。

モラトリアムの状態でいることを理解している
それではダメだということも理解している
人間として社会に出て自分の存在意義を見出したい。
それでも僕は「猫」を名乗り続ける。


これが僕の気持ちであり、抜け出せない葛藤である。

とても難しい。本当にお手上げ状態。
飼い猫の芸のように、社会に「お手」と言われている。
その手は爪を剥き出しにしている。
綺麗に磨かれた丸い爪を。


悔しい。どうしても分からない問題に出会った。
今までやってきた知識では解けそうにない。
「これくらいは解けないとダメ」
と言う声が聞こえてくる。




>>うるさいな、分かってんだよ。<<



当たり前や常識に囚われて、自分の美しさを否定し続ける人が僕の近くにいる。僕自身もそうだと思う。

美しいかは知らん。ただ、もったいないなと思う。

「進学するのは当たり前」
「みんなそうしてる」
「社会人になって働くことが人として自然な流れ」

そんなのクソくらえだ。
うんち投げてやる。
触りたくないから勘弁しといてやる。

これを読んでくれてる超モノ好きな人達に伝えたい。
僕はあなたを応援する。
僕は自分の意志を行動に実行できない弱い人間だけど。
あなたは素敵だ。

だから、モラトリアム期間をポジティブに捉えて欲しい
現実逃避は現実を冷静に考えるための手段だから


自分を責めないで。






僕という猫は四季を感じられない

いや、四季を感じていたくない。

地軸のズレを作った隕石を爆発してやりたい。



得体の知れない未来を怖がるという点では
僕は人間なんだと思わされる。

得体の知れない物に興味を示すという点では
僕は猫になりたいんだと思う。

自分のことを
猫だと思い込んでいる人間でありたい人間
として僕はこの先も「今のこの瞬間」を嘆いていく。


毒吐き猫でした。それではまた

猫は夜行性ではない

お久しぶりです。
これ、毎回言ってるような気がするのは
毎回お久しぶりだからなんですけど


僕が毒吐き猫として、
ここに誰が読むのか分からない
読まれることの無いであろう
戯言を記すのは

『いつか僕が消えてしまった時に
僕がいた証を残しておきたいから』

そんなかっこいいことを言いたいなって…。

僕はずっと思うことがあります。
この後の僕の毒吐きが合わない人は僕のことを
「酷く考えすぎる猫」とでも思っててください
感じ方は人それぞれだと思います。


それでも、読んでくれてありがとう。
そう伝えたいです。
では、本題に…


「生きててえらい」って
生きてることは偉いのか、死んだら偉くないのか、偉人はみんな死んでるじゃないか。
凡人が死んでも偉くないと言われるのか。
そもそも『生きる』『死ぬ』あるいは『死んでいる』とは何なんだろう。

最近、よく見かける「生きててえらい」という常套句
僕は大嫌いです。
何もしないことを肯定するのは、好きじゃない。
具体的に言ってあげるべきだ。

みんな最初は生きてることが前提だ。
でも、生きてることを偉いと言ってしまえば、

『自分は何のために何が出来るのか』
そう考えることをやめてしまうのではないかと、感じてしまう。
当たり前に感謝することは大事だけど、それを偉いと豪語するのは何か違う。


なぜそう思うのか
ずっとずっと考えてきた。
多分、「生きててえらい」という言葉が交わされるよりも前からずっと考えてきた。

僕は他の人からしたら大したことないかもしれない
人に言えない過去ばっかり背負ってるつもり
消したい肩書きも記憶も沢山あるし、
足掻けば足掻くほど沼にハマって
正直もう諦めたい人生…猫生だ(あくまでも僕は猫)


でも、生きることの本質は変わらず


「誰かのために何かをしてあげられる」


これだけは譲れない
見返りなんて要らない時もある、
そう、自己満足


もちろん、誰かのためにの「誰か」が
自分を愛してくれる誰かだったら
きっと幸せになれるし、幸せにしてあげれると思う。

この1年間
誰かのために何かをすることだけ考えてた…


つもりだったけど
ちょっとした邪念で決心が揺らいだ。

ただ、思ったより僕の周りは強い人や
僕なんかより頼りになる人が多かった。

僕の存在意義は無いんだと思い知らされる程に。

「何かをしたい」と望んでも、
「僕」がそれをすることを
望んでくれる人も、許してくれる人もいなかった。

いなくなったと言うべきかな。

だから、そのいなくなってしまった、
愛した人から貰ったものを大事にする。


いつまでも白い百合のように威厳のある人になる。
そう決めたのがこの毒吐き猫の最初の戯言だった。


今も大して変わらない想いを抱いている。
だから、1人で良い。
誰も歩み寄らなくていい。
距離感を大切に。
ただ、海を漂うだけの海月のように。
誰かが流されて1人で困っていたら
ただ一緒に漂ってあげられる存在になりたい。
そうありたい。そう思いたい。

本当は。
もしできることならば
僕にそれを許してくれるのであれば
漂うのではなくて、連れていきたい
「誰か」の目指す場所を「僕」の目指すべき場所にしたい

海の上を漂う僕の生きる理由を誰かに貰いたい
海の上を漂う誰かの生きる理由を僕に任せて欲しい

海の上を照らす月が無いとしても、
必ず月の光が指す場所へとたどり着く。
クラゲ=海月 になりたい
暗い海の夜を照らしていきたい。




話は毎度のように猫の話になるが、
猫は夜行性だと思われがちらしい。

本当は、『薄明薄暮性動物』
簡単に言うと明け方や日没直後が活発らしい

僕は誰かにとっての
光が消えゆく時に暖かく手を差し伸べて
光が見え始める時に元気に手を振りたい

それを繰り返していきたい。
できることならば、
「特別な誰か」の光を導く猫になりたい。
そんなことを夢見ている。

今はただ、暗い海の上を漂い続けている。
見つけたものに手を差し伸べては漂い続けている。

つもり。


それが偽善的と言われようが
優しさの無駄遣いと言われようが

それしか出来ない僕は
今日も嫌いな「人間」という生物に毒を吐く。

毒と言えど、
良薬かもしれないし、致死毒かもしれない。

もしここまで読んでくれた方がいたならば、

ありがとう。
きっと、あなたの夜が明ける頃だと思います。
そんな無責任なことを言ってしまうくらいには
嬉しいのです。本当にありがとう。



今日の戯言は以上です。
毒吐き猫でした。では、また。

猫は水が嫌い

こんばんは、毒吐き猫です。

さて、夏が終わり少し寒い季節がやって来た
僕はいつもこの時期になると悲しくもあり
嬉しくも感じる

暑苦しい日々にうんざりすることがなくなり
解放された気分になる
ただ、少し別れの匂いがしてくる時期でもある

別れは辛い

これだけはどんなに足掻いても
変わらない感情だと僕は思う


同時に

深く関わらなければ辛さは少ない

そう思ってしまうのです


僕の周りには人がいない
『1人』が好きだ
でも、『独り』は嫌い
僕の周りにいる数少ない人は
とても素敵だ。眩しくもある。
まるで月の光に照らされた海の光のように

僕はそんな海をただ1人『漂う』のである。

色んな人と出会い色んな人と別れ
そんなことを季節の別れと共に繰り返してきた。
出会いも別れも嫌いだった。

僕が離れていくのか
はたまた、周りが離れていくのか
そんな疑問に頭を悩ませていた。




「あなたの居場所(コミュニティ)はどこにあるの?」

友人が何気なく僕に聞いた

「無いね、
僕は海にいるクラゲやゴミのように
ただそこにいて、『漂っている』だけ
水は僕を取り囲む環境や人で
迷った僕をどこかに連れていく海流があったり
居心地のよい島に辿り着いて漂うのをやめたりする
でも、波が僕をどこかに連れて行ったり
自分の意思で漂いに行くこともあるね」

僕はそう答えた。




近くもなく遠くもない、
みんなの『あそこ』に僕はいる
だからいつも独りなんだ。

友人からの問いに
驚くほどにスラスラと答えてしまった
現状に納得しているが満足はしていない。
だけど、諦めている自分がいる。



いつか漂う僕を拾ってくれる『何か』は
現れてくれるのだろうか。
それでも僕は『漂い続ける』ことを辞めないのだろう

そんなことを思いながら秋の空を見上げていた。
少し寂しいのは季節のせいかな。

では、またいつか。

猫が空を飛ぶ世界だってあるかもしれない

毒吐き猫です。

今日はふと思ったことがあったのでお話します。

夜中、眠れずに動画サイトで

胸きゅんストーリー(笑)漫画の動画をみていたのですが、

内容は
「学校1の美女が陰キャでブスの冴えない僕の許嫁に!?」
「金髪ギャルのあいつが陰キャ学生の俺に絡んでくる本当の理由とは!?」
「ブスで普段弱気の僕が思いを馳せていた女の子をストーカーから守ったら付き合った話」

みたいな感じです。今、適当に考えました。

昔、その動画がオススメに来た時、『そんなことあるわけないやん』と思い鼻で笑ってました。

しかし、夜中の暇つぶしが枯渇している僕にとってその動画はついつい見てしまうものへと変化してしまいました。
もちろん、そんなのあるわけないじゃん!の話です。

ただ、考えてみてほしい



そもそも『漫画』じゃん、あるわけないじゃーんw


その真理に辿り着いた僕にとってその漫画は非日常的な物語として楽しむことができたのです。

でも、どうしても言いたいことがあるんです。

『ブス』『冴えない』『陰キャ

これだけは違う、

だって作中のお前ら別に「ブス」じゃないし、何か行動を起こしてる時点で「冴えてるし」、陰キャだからなんなんだよ恋愛する陰キャもいるだろ

というある種の嫉妬を漫画にぶつける僕は引きこもりクソ陰キャです。さて、漫画化はいつですか?

出版社や漫画家のオファーを待つのもあれなのでまとめに入りましょう。


『割り切って考えることで物事を楽しめる』
ということが今回のテーマになります。


「クソ陰キャ猫の僕が、空を飛んだ話」

面白そうだと思うのは僕だけですかね。


これは
自分のことを猫だと思っている僕が美女に告白される話

の序章に過ぎないのであった(願望)


今回は可愛い毒になりました。
毒吐き猫でした。それでは、また。

猫は甘味を知ることが出来ない

『猫は甘味を感じない』

僕は甘いものが苦手だ。
それ以前に、甘いものが感じられないのだ。

人間は甘いものが好き
お米やパン、麺、砂糖とか、美味しそうに食べている。
僕は肉食だ。



…………あくまで猫の食事での意味である。

勘違いしないように。
100歩譲ってロールキャベツでありたい。




何の話だ。

さて、本題に入ると、
甘いという感覚を僕は知らないまま生きていくのだろう。
と言っても、全ての猫が甘味を感じない訳では無い。

ひょっとしたら、僕はまだ甘いものに触れていないかもしれない。

苦いもの
辛いもの
すっぱいもの
しょっぱいもの

時に人間は味覚の表現を使って
物事や感情を表している

苦いとか甘酸っぱいとか、甘いとか。
苦い気持ちは分かるけど
甘酸っぱいとか甘い気持ちってなんだろう。

美味しいのかな。



僕には甘いという感覚がない。
ひょっとしたら甘いというものに触れていないのかもしれない。
僕は甘いを感じれない猫なのかもしれない。

そんなことをふと思った。
毒吐き猫でした。ありがとうございました。

猫舌と温度のお話。

時折、「猫は熱いもの苦手だよね」って言われる。
実際苦手ではあるが、言い訳をさせて欲しい。
僕らは昔から捕らえた獲物や冷めたものを食してきた。
要するに

『ただ、温かいものに慣れていないだけ』なのだ。

人間だって、太古の昔は火を通さずに食事をしてきた
「人舌」と言われてもおかしくなったのに。


これが猫舌という言葉の由来である。

猫は昔から人間の身近な存在で
猫にとっても人間は身近な存在だった。
一緒に居たから、僕も人間のようになりたいと思い始めてしまった。

でも、人間は温かいものを食べる。ずるい。
冷めたものしか僕は知らない。

温かいものと対面した時
僕はそれが冷めるまで待つしかない。
本当は温かい方が美味しいのだろう。
でも舌が火傷するのは嫌だ。

怖い。

何度か触れてみたことがある。
その時は「熱くて痛いだけじゃないか」と思った。



なのにも関わらず
人間は 温かいもの を 温かいまま 食べる。

人間の 温かさも また 温かいまま 大切にする。

きっと『温かい』って気持ちのいいものなんだろうな…。
『温かい』って触れられるのかな。
見えるのかな。
いつか『温かい』を感じてみたい。
猫の『普段の温度』は
人間にとって『冷たい』ものなのかな…。
彼らは僕らのことを『温かい』と思ってくれるのだろうか。


『冷たい』で囲まれたこの僕は『温かい 』になれないのかな?


僕は『温かい』になれるように

こたつの中で丸くなるんだ。
窓辺で日向ぼっこをするんだ。
パソコンの上で寝っ転がるんだ。
テレビの上で寝っ転がるんだ。

いつか君の『温かい』になるために。

毒吐き猫でした。また。